上野蘇羅の「偏見自在」と言います。
なぜ、上野蘇羅なのかと言えばペンネームであり、
なぜ、僕が作ったかと言えばそれは阿羅さんが好きだからである。
チュキダカラーって奴です。
好きな事をやるのに理由も証明も要らない、ハズ。
「呑気でいいねえ」
「好きなことやれていいねえ」
という蔑み半分の意見は頂戴するとしても、理由や証明はあるようでないから放っておく。
理由や証明を求める人は往々にして家族や恋人なので、放っておくと焼け野原になる可能性が高い。ここが難しいところです。
何がって?僕の。
持論として「人生時間割」論がございまして、どうやら愛情にもそれが当てはまります。
永遠に続く愛情なんてものは見たことがない。
でも本当は永遠に続く愛情はある。
形や温度や音を変えて生きている。
それは肉体が死んでも「生きて」いるように思える。
だから現実の箸の上げ下げなんてどうだっていいじゃあねえか、と言うのが僕の暴論。
それで嫌われるんですけどね。
僕が阿羅さんの書くものを一生好きだという保証は無いし、全てに感動しているわけじゃない。
僕はただ共鳴した。
ふああん、と身体や心のどこかが鳴ったので、更新しているのでしょう。
素晴らしい出来事は必ずこう言っている。
「僕と共鳴せえへんか?」