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兼業SSW、宅嶋淳の徒然です。

言えない時間が言葉をつくる

会えない時間が愛育てるのさ、と郷ひろみも昔「よろしく哀愁」で歌っていた。

 

〇歌が楽しい

このところ、俺はすこぶる歌が歌いやすい。

それはライブの曲を減らしたり、お喋りを減らしているせいかもしれない。

でもそれは単にそのほうがうまく行くと思える日にそうしているだけで、別に20曲ぐらいなら1回のライブで歌ってもいい。

聴いてる人が大変過ぎるもんね。

俺はその日の気分や(いらっしゃれば)お客さんを見てやることを決めるようにしている。

アマチュアミュージシャンはプロに出来ないことがやれるからね。

プロと同じことをしたいのなら、プロミュージシャンになればいいのだ。

 

と、こういうことも書かなくなるようになるのがいちばん良い。

 

 

〇ことばを飲み込む

谷本仰さんがtwitterで、今、「ことば」が損なわれていることについて何度も書いていた。

谷本さんの真意は谷本さんの言葉からそれぞれが感じればいいと思う。

 

俺は「戦争」や「人殺し」という冷たい言葉や「国」や「女」といった温かい言葉をあまり口にしなくなった。

分かっていたことと感じる現実の釣り合いがとりづらい、というか。

知識をもとに判断したいと思うのに疑念がつきまとう。

簡単に断罪したり好きになればいいと思うけれど。

話を聞いたり、ニュースを見てもことばを飲み込むことが多くなった。

 

 

〇認知、やっば。

仕事の一環で行動に障害を持つ人や認知に難がある人との共同作業を起案しようとしているのだけど、これは「起案」するのではなく体験し続けることなのではないか、と思うようになってきた。俺の認知力もかなり怪しいし。疑う、知ることと同じように感じることが大事なのだ。安っぽい事業計画なんか止めろ、という俺と、いやそのあの政策金融公庫に提出する事業計画だって大事だし、やるべきことは仕事として計上しなきゃ今までの繰り返しだろ、という俺もいて。チョーうるさい。

 

うっさ。

やっば。

きんも、の繰り返しで55歳を迎えちゃうのだ。

 

 

〇ことばの向こう

先日、空き家になっている親戚の持ち家の草刈りをやった。

年に2回ほどやるべきところを多忙を理由に伸ばしてしまっていたのだ。

親戚でいちばんレコードセンスが良いカズヤ兄さんは遠方におり、コロナ禍で暇だった俺はこの数年お駄賃をいただきながら草刈りをしていた。しかも家人に手伝ってもらいながら、というだらしなさ。ミュージシャンでイベント屋なんて人種は本当に世の中の役に立たんな、と自分を憐れむことすらもうしない。

 

とにかく淡々と大量の汗と熱を放出しながら刈る。

(淡々とこういうことが出来るようになったな)

(ナイス爺になれるかな)

そんな甘い基準で刈っている俺の数段上のレベルで家人は荒れた庭を整える。

義母も義弟も母もそうだが家人もそうで、とにかく徹底した草むしり。

オリンピックに出れるんじゃないか、と思うぐらい刈った後が美しい。

 

この日、俺は草刈りを終えてから起案や積算をやる予定だったんだけれど、積算だけして起案はやめた。

家人の草むしりにハッとする以下の気持ちで物事を紡ぐのはやめよう、と。

結論のための起承転結を大量に作るんじゃなくて。

起も承も転もしっかり見た上でそこを省いたり、想像してもらうことも大事なんじゃなかろうか。

身近なものにハッとしなくなったら、それはもう音楽どころじゃねえし、お金いただく仕事に値しない。

 

そんな丁寧な気持ち、がことばの向こうにいる世界への切符。

見よう見まねで始めた猿真似音楽にも、知ったかぶりの企画書にもその機会を任せてもらえた命(というと大袈裟太郎)があるっちゃねえと。そういう意味でどんどんおどろいて楽しめるようになるよ。なりますよ。

 

思い通りにゃいかない世の中。

味わい深いね。

 

最近こさえた法人は市民文化部企画推進室って行政のパチモンみたいな名前ですけれど、どんどん好きになってきた。

死ぬまで生きます(あたりまえ)