takulog

兼業SSW、宅嶋淳の徒然です。

何度読んでも響いてくる落書き

久々にゆっくりインターネットをじろじろ見てた。

トモッキーは復活気味だし、友人・先輩諸氏もなお盛ん。

最後にこの落書きで目を閉じようと思いました。ようし、寝ます。

 歌がうまいとか、演奏がうまいとか、踊りがうまいとかいうのは、本当は、良くないことなのではないだろうか。それは、歌がへた、演奏がへた、何々がへたというのと同じくらい、いや、もしかしたら、それ以上に、つまらないことなのではないだろうか。

 もちろん、うまくたってかまわない。うまいに越したことはない。けれど、うまさを感じさせてしまっては、それだけに目がいってしまうようでは、失敗である。音楽は、うまさやへたさを伝えたいわけではないからだ。

 肝心なのは、何を歌おうとしているか、何を伝えようとしているかだ。その歌い手の、愛とか、願いとか、祈りのようなものが、感じられるかどうかだ。

 音楽だけではない。ラブレターにしても、一生に一度か二度のプロポーズの言葉だってそうだろう。日常の何でもないちょっとした会話においても、同じことだ。うまく言えなくても、かりに、ど、どもっちゃったって、つまり、一向に、うまく歌えなくたって、そこに心があるか、心がこもっているかどうかだ。それだけが、人の心を動かす。

 演技は、演技しているというのを感じさせないのがいい。音楽も、いかにも歌っています、いかにも音を出していますというのは、ちっとも面白くない。いったい、この音は、どこから、聴こえてくるのだろう、誰が音を出しているのだろう、といったくらいのがいい。もちろん、音響技術の話ではない。

 ギターがギターの音を出したって、ピアノがピアノの音を出したって、ベースがベースの音を出したって、そんなことは、当り前のことだ。何か別な音に聴こえてくる。楽器が楽器を超える。奏でていないメロディが聴こえてくる。歌声が歌声を超える。言葉が言葉を超える。音を出しながら、たとえば、そこに、風景が広がる。

 昔、個性が大切だと思って、人となるべく違うことをしようと思った。けれど、二十歳を過ぎたあたりから、普通であることが一番ステキなのではないかと思うようになった。個性的でありたいと思った瞬間から、もう、個性的ではなくなってしまう気がした。普通でありたいと思った瞬間から、すでに、普通ではないのだろう。

 「自分の意見」を持って、発言することが正しいと思った。これも、怪しいものだ。「自分の意見」を言うよりも、「人の意見」を聞くことの方が、何も語らぬ方が、ずっと、むずかしい。

 「精神的なもの言いが精神を掩い隠す」という言葉は、白洲正子の『いまなぜ青山二郎なのか』に出て来る言葉だ。それを、河合隼雄白洲正子との対談集『縁は異なもの』の中で何度も引き合いに出している。僕も読みながら、つくづくそうだなと思い、そうだ、「音楽的なものが音楽を隠してしまう」んだと、ひらめいたら、すぐそのあとに、同じ言葉が出てきたので、びっくりしてしまった。

 音楽は、音楽的なものとは、一番程遠いものなのである。

(早川義夫