「未必の故意」って言葉がある。
意味は「ある行為が必ずしも犯罪としての結果を生じさせると確信しているわけではないが、もしかしたら結果が生じるかもしれないと思いながら、その結果が生じてもかまわないと思いつつ行為を行った場合の事」だそうです。
例えば、えん罪の可能性があると知りながらその人を犯人として裁こうとしたらどうなるんだろう。合理的な疑いを越えなくとも有罪という印象を与え続けた場合はどうだ。
その人の人生そのものを傷つける。
これを未必の故意とは呼ばないのだろうか。
被害者や被害者の家族の痛みを利用する事は、その人達を二度も三度も傷つける。
マスコミに過剰に演出された常識で、印象で裁きたくないし、裁かれたくないなあ。
裁判員制度が始まろうとするのに、例えば故三浦社長のイメージは「きっと人殺し」だ。
彼が支援してた林真須美被告は「同じく人殺し」だ。
真実も事実も僕にはわかりません。
はっきりしているのは「非常識な人」が犯人であるという常識。
それを決めるのは未必の故意で作られた印象なのだ。
僕は非常識で不見識な人間なので、何かの犯人にされても仕方ないんだろうな。
子供にそれだけは言っておこう。
それで君はどうする、どう生きたい?と。