お寺さんが納骨堂に建て替えるという事もあり、祖父が建てた立派な墓が無くなった。
父は未だに納得していないが、祖父のように備えがあるわけではなく、思いだけではどうにもならない事は父もよく分かっているので、墓守は僕に変わった。
恥ずかしながら僕も備えがあるわけではなく、子供の学費と単身赴任の二重生活費で鼻血も出ない暮らしなのだけど、お金をかけなくても出来る事はある。
大きな意味なんてない。
人はただ何処からか来て何処に行くだけだし、生まれた事と亡くなった事を記録するだけ。
頼まれてやっているわけでもない。
記録したい、という気持ちは叔母の影響もあるのかもしれない。
叔母は祖父の日記をコツコツ書き起こして書籍にした。
(僕も一部真似てやってみている)
亡くなった人の思いを勝手に想像することは傲慢だと思われるかもしれないし、自分のフィルターを通すことで事実は歪んでしまうんだろう。プロのライターではないしね。
家族の用務員みたいなものかもしれない。
家と家、人と人、過去と未来。
それぞれ距離をとりながらつきあうこと。
未だに無くならない戦争と争いを煽る言葉にうんざりしながら、それも僕の一部である事も痛感した終戦記念日だった。
自分の中に言葉や気持ちの墓を作れるんなら、まずは憎しみを粉々にして埋めたいデス。